関西合同法律事務所名称変更のころ 1974年
関西合同法律事務所名称変更のころ 1974年 弁護士 寺沢 勝子
事務所にとっては昭和49年(1974年)は事務所創立20周年の記念すべき年であり、20周年をきっかけに当時の法律事務所の名前としては普通であった個人名の事務所、「東中光雄法律事務所」から「関西合同法律事務所」へ事務所名を変更しました。
昭和49年は「憲法知事さんこんにちわ、公害知事さんさようなら」のスローガンではじまった「憲法を暮らしに生かす」黒田革新府政を存続、発展させるのかが問われた年でもありましたが、昭和50年4月に再選を果たし、黒田革新府政は2期目を迎えることになりました。
私は昭和45年4月に事務所に入所したので、4年目の年でしたが、「平等・開発・平和」をスローガンとする国際婦人年が1975年6月メキシコで開かれた国際婦人年第1回世界女性会議からスタート、世界行動計画とメキシコ宣言が採択されました。
ここでは、男は仕事、女は家庭という性別役割分担をなくさねば女性に対する差別はなくならないとされました。74年から大阪では国際婦人年に向けた取組がはじまり、国際婦人年北区の会の連続講座もスタートした。講座を持つだけでなく、関西経営者協会で出産して出社すると10ケ月間も仕事を取り上げられ、毎日、退職を勧められるケースで交渉により退職勧奨を止めさ、仕事を取り戻すという成果もあげました。
私も担当した昭和46年の三井造船事件で結婚、出産退職制は憲法の趣旨に反して無効という大阪地裁判決が出たため、制度として結婚、出産退職制をとる企業は少なくなりましたが、「子どもの側にいてやらないと子どもがかわいそう」などと言って退職強要をする企業は沢山ありました。経営者を指導する立場にある関経協が退職勧奨をしていたくらいですから。
女性たちの運動は働き続けることから、賃金差別など労働条件の差別にも向いていき、75年には秋田相互銀行事件で男女別賃金表を適用することは違法との判決が出ました。男女同一労働同一賃金を規定する労基法4条違反として労基署に申告していたのですが、労基署は「頭取が頭を下げているのだから、かんべんしてやってくれ」と言って取り上げようとしなかったのでやむをえず裁判を提起したのです。この件は秋田なので実働はできませんでしたが、勝利記念に秋田杉でできた花瓶を頂いて、今でも使っています。
国際婦人年北区の会の講座から色々な職場で働く女性たちの賃金差別の実態を聞き取る取組が始まり、81年の男女賃金差別をなくす大阪連絡会へとつながっていき、90年代には間接差別を含む男女昇給、昇格差別・賃金差別をなくす訴訟が提起されていきました。
国連では1974年から女性差別撤廃条約の起草作業が始まり、1979年第34回国連総会で女性差別撤廃条約が採択されました。女性たちの運動が国際的な拡がりをみせ、実質的な平等の確保へ向けて前進していくきっかけとなった年でもありました。
また、昭和49年には最高裁が2ケ月更新を続けていた東芝臨時工事件で、期間を定めていても反復更新していれば、期間の定めのない契約に転化するので、正当な理由なく解雇ができないという判決を出しました。これは臨時工の女性たちが提訴していたものですが、当時、増えはじめていたパート、臨時などの不安定雇用労働者にとっては、大変、大きな意義のある最高裁判決でした。
1980年にはじめた「働く婦人の悩み100番」にはパートの女性たちからの相談が殺到、「パートでも一人前の労働者、労働基準法をはじめとした労働保護法規は適用になる」というあたり前のことを広めるため、パンフ「パートで働くときにー損をしないための12章」を発行、3万部が出て、ようやくパートの権利も認識されるようになりました。
このように、男女平等については、昨年の女制差別撤廃委員会からきびしく勧告されているようにまだまだな点はあるものの、進んできました。しかし、「平和」については、第1次世界大戦では被害者のうち民間人は5%にすぎなかったのが、第2次世界大戦では50%に増え、1990年代では武力紛争の約80%が民間人、そのうち大部分が女性と子どもという状況になっています。そして、21世紀こそ平和の世紀にと言われていたのに、イラクでは米軍によって毎日、民間人が殺されている状況です。