育鵬社の歴史教科書問題
歴史教科書を読んで思うこと 2015/12
弁護士 上 山 勤
1、大阪市教育委員会が育鵬社の歴史教科書を採用した。今後、多くの大阪市内の中学生が、この教科書で歴史を学ぶことになる。私は、この育鵬社の教科書の問題に関心は持っていたが、このたび支部での立場上のこともあって、団支部の担当者の人たちと一緒に、こんな教科書を採用しないでほしい、と申し入れに行った。そして行くからには読まないといけない。そこで買ってもらって読んだ。いろいろな問題意識が湧き上がってきたので報告したい。
2、 「休戦条件については、われわれは決して弱腰であってはならない。しかしながら、天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は我々にとってのキリストの十字架刑に匹敵する。・・・アメリカは状況を主導すべきであって、後追いするべきではない。時期を選んで、われわれは一方に天皇と日本人を、他方に東京の軍国主義ギャングたちを置き、両者の間にくさびを打ち込むべきである。」(ボナーズF・フェラーズ准将、マッカーサーの軍事秘書官)
これは、1944年段階で米国内で提出されていた報告書の一部である。マッカーサーは日本に進駐する際、すでに、戦争犯罪人を裁くというポツダム宣言の精神とは別に、日本統治の未来図の中での天皇の利用についてのこのような考えを持っていた。
明治憲法によれば、主権は天皇にあり、天皇は統治権を総覧している。軍部をつかさどる統帥権については、天皇が直接これを保持し、議会や政府のコントロールは受けない仕組みで、宣戦を布告する権限も握っている。戦争犯罪人をさばくというのなら、本来、真っ先に天皇の罪責が追及されなければならない。しかし、彼は、起訴にすらならなかった。東京裁判では、A級戦犯をはじめとして、戦争犯罪人が裁かれた。しかし、最大の責任者である天皇の責任を問義すらされず、けじめがついたとは到底言えない。
中学校の歴史教科書、特に育鵬社のそれは、この天皇の戦争責任をどう説明しているか。歴史の流れの中で考察するため、○1明治維新(明治政府)の性格○2日露戦争○3満州事変、そして○4終戦を通じて眺めてみる。
3、○1の明治政府の性格について。
1867年「大政奉還」については「1867年10月、京都の二条城で、(徳川慶喜が)政権を調停に返すことを発表」と記述し、同年12月「王政復古の大号令」によって天皇を中心とする新政府を作ることが内外に示された。
1869年には薩・長・土・肥による朝廷に対する「版籍奉還」が行われ、他の藩もこの動きに従ったこと、藩とはその領土であり籍とはその人民であることを正しく記述している。つまり、土地と人民は朝廷(天皇)が「領有」する事態となったことを述べているのである。このような歴史把握からは、明治憲法の主権者が天皇であり、国民は人民ではなく「臣民」(君主制の下での支配の対象である者)とされていることの意味が実質的に理解されるであろう。政治の仕組みとしては絶対主義天皇制であったことを正しくつたえている。
但し、「臣民」との表現は帝国書院や東京書籍の歴史教科書ではもちいられているものの、育鵬社のそれでは述べられていない。明治憲法においては、日本の歴史のなかで初めて国民の権利なるものが法文化された(臣民の権利義務)。このことを、肯定的に眺めるのか、現在までの歴史の流れの中で、当時の時代が抱えていた制限つきのものというように眺めるのかで、歴史を教えることの意味・目的が違ってこよう。
4、○2の日露戦争について
(1) 育鵬社の教科書は、この項目の書き出しで「ロシアの東アジアでの軍備増強をこのまま認めれば、わが国は存立の危機を迎えると考えた政府は戦争を決意し1904年2月日露戦争がはじまりました。」という。戦争に至った日本側の動機がロシアとの関係で述べられているだけである。後は、戦いの経過(旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦などを紹介)とポーツマス条約の締結という終戦までを記述している。しかし、このような記述では、日本が韓国を併合する行為と併せて、帝国主義的な「他国への侵略」という側面がすっぽりと抜け落ちてしまう。中国との関係でどうであったのかについてなにも触れないのはおかしい。(2) 手元に日本・中国・韓国が共同編集した「未来をひらく歴史」という歴史教科書がある。それによれば、戦争の真のねらいは何だったのか、という章立てでまず日露戦争がどこで戦われたのかの戦場の地図を載せている。いくさ場はすべて韓国と満州(中国東北地方)であり、そのことが戦争の性格を端的に表していると指摘している。戦争のさなかである1904年5月の閣議決定で『日本は韓国に対して、政治上・軍事上・保護の実権をおさめ、経済上、ますますの利権の発展をはかる。』と決定している。目的が韓国の植民地支配の強化にあったことは資料から明らかである。鉄道用地や軍用地として土地を取り上げ、人・馬・食料を供出させたため生じた韓国での民衆の抵抗は厳しく弾圧されたとの指摘もある。
(3) かわって、育鵬社版の教科書はこの戦争を次のように評価する。「幕末以来、わが国の指導者や国民には、欧米列強の植民地にされるという根強い危機感がありました。しかし、この危機感は、日露戦争の勝利で解消し・・・また同じ有色民族が、世界最大の陸軍国ロシアを打ち破ったという事実は、列強の圧迫や植民地支配の苦しみにあえいでいたアジア・アフリカの民族に、独立への希望を与えました。・・・ネルーや・・孫文は・・・アジア諸国に与えた感動を物語っています」と。肯定評価ばかりである。(豈はからんや、戦後70年を記念して出された安倍首相の談話は冒頭に近いところでこのように言っている。『百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。』この日露戦争で土地や人を徴用された国のひとたちは歯ぎしりをする思いでこの安倍談話を聞いたに違いない。)
(4) 日露戦争は、育鵬社の教科書指摘のような効果を周辺の国々や日本国民にもたらしたかもしれない。しかし、合わせて、踏みつけにされた国があったこと、そして自国は世界の一等国だという思い上がりからアジアの他国に対する優越感を生み、ここから生じる差別意識が後々、隣国に対する非人間的な行為を遂行できる素地となっていったことの指摘はまったく見受けられない。安倍首相が同じベースで談話を語っているのは決して偶然の一致とは思えない。
(5) 勿論、日本の側に歴史的な下地としての思い上がりがあったことも忘れてはならない。くだんの教科書では明治時代での文明開化の必要性を強調する下りの中で、福沢諭吉は『学問のすすめ』を著し「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」と述べたと紹介され同時に「一身独立し一国独立す」との言葉も紹介されている。肯定の文脈のみである。しかし、本当のところ福沢は別の著作で、西洋は文明、アジアは半開、アフリカは野蛮と書き、日本は西洋を手本に文明化を図るべきだと強調したこと、日本はアジアの文明の中心、東洋のリーダーだからアジアを保護しなければならない、朝鮮が文明化を受け入れなければ、強制的に文明化して、西洋の進出を食い止めなければならない、とも主張している。1885年に発表された『脱亜論』では、朝鮮の改革派のクーデターが失敗したのを受けて、今後はアジアの文明化を進めるのではなくて、アジアとは縁を切って、に西洋諸国と同じやり方でアジア諸国の支配を進めるべきだとまで主張した。教科書は取り上げないが、上から目線の典型ではないか。
(6) ちなみに、育鵬社の教科書の宣伝を担っている「虹」というパンフレットは「日本って最低の国やな」という小学生の言葉を紹介し、教育基本法では「我が国と郷土を愛する」ことを教育の目的にしているのになぜ、真逆の教育が行われているのか、と従前の教科書の記述を攻撃している。この精神は安倍首相の言う愛国心と通じるものであろう。しかし、ロシアに戦争で勝ったから、白人に勝ってアジアの有色人種を励ましたから自尊心を持てというのだろうか。歴史の真実の片側だけを教えて教育することはまったくの虚偽を刷り込むことに等しい。東京書籍の教科書では、「国民の中には帝国主義国の一員となったという大国意識が生まれ、アジア諸国に対する優越感がつよまりました」と正しく指摘をしている。帝国書院のそれも帝国主義という言葉を使っている。
5、○3の満州事変について
(1) 育鵬社の教科書はいう。「中国では、国民党が中心となって日本の中国権益の回収を求める排日運動が強化されました。排日運動の激化に対し、日本国内では日本軍による満州権益確保への期待が高まりました。こうした情勢の中で、関東軍は問題の解決を図って満州の占領を計画しました。1931年9月、関東軍は奉天郊外の柳条湖の満鉄線路を爆破して中国軍の爆破と発表し、満州各地に軍を進めました。・・」歴史は、このあと犬養首相の暗殺と5.15事件、満州国の成立、リットン調査団の調査、国際連盟の脱退と続くが、育鵬社の教科書は一連の動きに対する評価をしない。軍部の独走と陰謀で戦火を招いたことに対する反省や、軍部のテロによって政党政治が終わったことについて一言の批判的言辞をのべないのである。都合が悪い歴史は淡々と、史実をのべるだけなのである。しかし、現在の憲法下で中学生は歴史を学ぶのであるから、現在の視点からすれば、このような行動は軍部の独走で許されず、シビリアンコントロールが効いていない不幸なできごとであると中学生にきちんと伝えるべきではないか。
(2) さらに言えば、事変に先立つ1927年6月に開かれた『東方会議』も重要である。田中義一内閣は強硬外交を推進し、山東出兵などをなしたが東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などを集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いた。会議では、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る、出兵も辞さない、満蒙における権益は中国内地と切り離して、同地域の平和のため日本が責任をもって支配下に置く、といった内容の『対支政策綱領』が政府の手によって決められてた。満州における石原寛治らは、このような政府の動きに敏であっただけというべきかもしれない。日本という国が、根本において、帝国主義的な侵略を進めていた、その部分に対する光は育鵬社教科書では当てられていない。しかし、このように突っ込んだ記述に至っては、他の教科書でも拾うことができない。
6、○4の終戦について
(1) さまざまな切り口がある。ここでは天皇の戦争責任について考察する。
最初に、8/15に行われた終戦の詔勅について、ポツダム宣言を受諾した旨を国民に告げたことはよく知られているがほかに何が述べられたのか。
ポイントは4つある。
1)他国の主権や領土を侵す気持ちは自分にはなかった。
2)原爆の使用もあって、無辜の民が殺され、このままでは日本民族のみならず人類の存続にまでかかわる。
3)自分の臣民で戦場や職務にて死亡したものや遺族のことを思うと身が引き裂かれるほどにつらく、傷や災禍を被ったものを思うと心が痛む。
4)国体を護持し今後の発展を期したい。
実際の言い回しは、次のようなものである。大切と思われる部分だけを引用する。下線は筆者が引いた。
『そもそも、帝国臣民の康寧(こうねい)を図り、万邦共栄の楽しみをともにするは、皇祖皇宗の遣範にして、朕の拳々措かざる所、さきに米英2国に宣戦せる所以もまた、実に帝国の自存と、東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。』
『戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。 しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻(しき)に無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る・・・しかもなお、交戦を継続せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。』
『朕は帝国と共に、終始東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者、及びその遺族に想いを致せば、五内(ごだい)為に裂く。かつ、戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。・・・おもうに、今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕、よくこれを知る。しかれども朕は、時運の赴く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世の為に大平を開かんと欲す。 朕はここに、国体を護持し、得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共にあり。』『宜しく、挙国一家子孫相伝え、かたく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を鞏(かた)くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。 爾臣民、それ、よく朕が意を体せよ。』
(2) さまざまな嘘とごまかしが、ここには認められる。そして、自分の臣民の犠牲に対してのみ思いをいたしているのは特徴的であり、安倍首相の70年談話と一脈通じるものがある。
育鵬社の教科書は戦争の終結の章を設け、ドイツの降伏、原爆投下とソ連の参戦、日本の敗戦と説明をしている。最後の項目では、御前会議で賛否が同数であったため天皇の判断を仰いだところ天皇は、ポツダム宣言を受諾し降伏するという外務大臣の案を支持したとある。天皇の戦争責任については一言も触れるところがなく、逆に、御前会議での言葉として『国体の問題に疑問があるというが、私は疑いたくない。それは、国民全体の信念と覚悟の問題である。私は自分がどうなろうとも国民の命を助けたい。日本がまったくなくなるより、少しでも種子がのこるなら復興する希望もある。』と自己犠牲的な大変に立派な言葉を述べたように紹介されているのである。これで終わってよいのだろうか。
先に紹介をした「未来をひらく歴史」という歴史教科書によれば、東京裁判の章の中に「裁かれなかったもの」という項目を立て、『日本をほぼ単独占領したアメリカは裁判に大きな発言権を持ちました。天皇を利用して占領をスムーズに進めようとの方針から、天皇側近や政治家と結び「戦争責任は東条ら陸軍軍人にある」として昭和天皇の免罪をはかりました。官僚や財閥などの責任も問われませんでした。オーストラリア出身のウェブ裁判長が「戦争を行うには天皇の許可が必要であった。もし、彼が戦争を望まなかったならば、その許可を差し控えるべきであった」という異例の個別意見を発表しましたが、判決には生かされませんでした。』と記述している。歴史の真実のどこに光を当て、何を明らかにするのか、によって記述は変わってこざるを得ない。
(3) 天皇の敗戦の放送から6時間後、鈴木貫太郎首相がラジオ演説をしている。曰く『陛下は万民を救い且つ世界人類の降伏と平和に貢献すべき旨のご聖断を下し給うたのであります。陛下の御慈悲の光被こそ国体の護持そのものである』
この首相は、勝利を得られなかったことについて国民はことごとく陛下に『こころよりお詫び申し上げる』とも宣言した。手元の資料によれば、皇居でひざまづく国民が写った写真がある。敗戦を天皇に詫びているのである。鈴木首相の思惑=戦争を起こした理由は問わない、敗北の理由のみを語り、軍部の失策や国民の努力不足が敗因であるとして「天皇」に詫びる・・・というシナリオが功を奏しているのである。ここでは、悪者はまるで国民であり、軍人も国民も等しく天皇に対して詫びるべきだという構図がみてとれる。
(4) そもそも、天皇が同席の上で御前会議が開かれ、重要な事柄が決定された歴史がある。1894年に日清戦争を決定、三国干渉や日露戦争などに際しても対処方を決定し、1938年以後には日中戦争の処理方針、日独伊三国同盟、真珠湾攻撃などを決定した。天皇不在の御前会議は存在しない。一連の侵略戦争に深くかかわったと言われれば、否定のしようがないであろう(ほとんど発言しなかったことをもって天皇個人を免責する議論があるが、ロボットでもあるまいし、ナンセンスである)。真珠湾攻撃についても、天皇は、戦争準備、艦隊の展開、艦隊の任務、合衆国との外交交渉が瀬戸際で成功した場合に艦隊を引き上げる際の決定、開戦の時期といったことを承知し、命令を下していたのであり、米国との開戦についても責任はあるのである。
(5) 最大の戦争責任者が、裁判にかけられることもなく、特定の陸軍将校のみがA級戦犯として起訴・断罪された。しかも、巣鴨刑務所に身柄拘束中の他の戦犯容疑者も結局起訴されることなく次々と釈放されていき、政界への復帰が図られた。ここに、戦後から生まれた『日本無責任体制』の原点があるように思えてならない。ドイツの首相は、強制収容所犠牲者の碑の前でひざまずく。日本の首相は、東条らが祭祀された靖国に参拝し頭を垂れるが、慰安婦などについては存在を否定する。この違いについて、かっては国民性の違いなのかと愕然としたこともあったが違うのだ。政治的な思惑が正義を捻じ曲げて進行した結果なのだ。9月27日、天皇とマッカーサーは旧アメリカ大使館で二人だけで会見している。天皇が訪ねてきたとき、彼は不安で震えていた。これは、マッカーサーの軍事秘書官ボワーズが目撃をし、ニューヨークタイムスの記者も目撃しているとされる。しかし、会談終了後は「天皇は精神的に高揚した様子で明らかに緊張が解け、自身を取り戻していた」とされる(ジョンダワー、敗北を抱きしめて)。翌日、皇后は菊と百合の花束をマッカーサー夫人に送り、一週間後には、天皇から優美な蒔絵の文箱がマッカーサー一家に送られている(同文献)。中国革命が成功し、急速な占領政策の右旋回が、巣鴨刑務所の多くの戦犯を釈放せしめた。国外で多くのB級C級戦犯が処罰される中で天皇を含む本当の責任者が放免されていく構図こそ、日本無責任体制の始まりであり、巧妙に立ち回る人間が利得を受ける社会を創り出してきたのだとかんがえる。
7、まとめ 育鵬社の教科書は先に述べたように、天皇を犠牲的な精神に満ちた立派な人間としてのみ描き、戦争との関係で責任があったことをあいまいなままにしている。多くの犠牲が生じたことから反省を引き出すことは当然である。しかし、合わせて、何がよくなかったのか、戦争の惨禍を繰り返さないために何を学ぶべきなのかは、戦争の原因をどのように考えるのかを抜きにして論じることはできない。その点で、日本が過去行ってきた海外への侵略を「帝国主義的な侵略」ととらえることのできていない育鵬社の歴史教科書はこの点について欠格品である。日本が歩んできた歴史に対する真摯な考察がまったく欠けている。
しかし、天皇の戦争責任について触れた中学校教科書は見当たらず、その意味で、事柄の責任を明確にしない、曖昧な人生の予備群創出にすべての教科書が一役買っているのかもしれない。しかし、最大の戦犯を持ち上げるような記述がなされる育鵬社版教科書はまったく持って意図的で許し難い。