じん肺をなくす闘い
じん肺をなくす闘い 弁護士 上山 勤
1970年代、青年法律家協会は隠された労災職業病の発掘と称し、人類最古の職業病じん肺の実態調査に入った。大阪でも研究会が開かれ、各地の労災病院へ患者訪問をするなどの活動が取り組まれた。そのような取り組みの中で西森善信さんとめぐり合った。
高知県の葉山村出身。若い頃から出稼ぎでトンネル工事に携わり、四国の土讃線・山口の岩日線などのトンネル工事や黒部ダム建設に従事した。1980年にじん肺と診断された西森さんは、すでに面談したときには酸素ボンベで呼吸をしている状態であった。まだ学生の3人の子供がいるのに、御自身は「つながれた牛みたいなもんです」と自嘲される状態であった。上山と正木みどりは西森さんの自宅を訪問し、お話を聞きながら、何とかしなければという思いに取りつかれた。1986年、ハザマ組と鉄建建設を被告として損害賠償の訴えを提起。裁判を進める中で、同郷の出身者片岡丑吉さんからはがきをいただき、これまたじん肺患者さんで、しかも患者同盟のために尽力していること、裁判を自分も起こしたいとの連絡をいただいた(これ以外に高見勲さんも提訴し、大阪の弁護団は3件のじん肺訴訟を抱えることとなった) 。
じん肺は、粉塵を吸入して発症する不治の病であるが、実際に発症するまで長年月を要する。従って西森さんの場合でも、昭和30年代の当時の状況を20年後にあれこれ調査を進めるという困難があった。当時の同僚に仕事の実態の話を聞くために、何度も高知県に足を運んだ。
1994年2月、西森さんについては大阪地裁で、翌3月には片岡さんについて神戸地裁姫路支部で、それぞれ和解が成立した。しかし、西森さんは1987年に、片岡さんは1990年に、いずれも53歳の若さで死亡し、勝利的な和解の報に接することはなかった。勝利を喜びながらも同時に口惜しさを噛み締め、改めて人々の命を犠牲にして成り立っている鉄道や発電所の存在に胸が熱くなった。事務所では上山、正木のほかに斉藤真行・井上直行が参加した。以下は事務所ニュースの一部抜粋である。
「西森さん・片岡さん。貴方たちはなによりも自分の体で真実を語っておられました。1日のうち5分ぐらいしか現場に現れない保安要員が、ぺらぺらと語る事実を見事に粉砕する真実の重みを体現しておられました。裁判の勝利の日をともに手を握って喜び合うことができないのがとても残念でなりません。まだ53歳という年齢で家族と永別せざるを得なかったことは本当に口惜しいことであったことでしょう。でも多くの支援する人たちや残された家族が勝利報告集会に駆けつけ、あなた方の勇気と誠実と頑張りを胸に刻み、じん肺根絶にむけた決意を新たにしました。あとは私たちにバトンを預け、安らかに眠ってください」